「盛る」ことが簡単すぎて「生のもの」見えないものよ私たち
ようこそいらっしゃいました!
今回もご愛顧いただいている(?)【福話術】の第9回をお送りいたしますね。
取り上げるテーマは、
私たちは常に「盛っている」
というものです(ご飯のことではありませんよ)。
身の回りの事柄、人物たち、その他すべてのものに関して、一見じゅうぶんに触れているようだけれど、実際にはそれそのものを見たり味わったりすることがないのではないかというお話です。
わしはそんなことない。
80年の坐禅により、この座布団の上であらゆる物事の本質を見抜くことが可能となったのだから!
さてさて……、師匠のお言葉はひとまず聞いておいて、中身に入っていきましょうか🎈
いつも「盛る」わたしたち
ある日、近くのスーパーで安売りをしていたお団子パックを購入して、緑茶と一緒にお家で食べてみました。
こだわりのお店の商品というわけでもないですし、いつもお買い物のときには目にするものですから、特に期待せずにいただいたわけです。
やべぇっ! これめっちゃうまい!!
京都の団子とかよりマジうまいよ、今まで生きてきた中で一番うまいんじゃない、これ!?
と、これがすでに「盛って」いますよね。
やべぇっ
何もヤバいことはないのです。
「ヤバい」と感じるということは、ヤバくない状況が頭の中に想定されていたということです。想定とずれがあったために、これまた「想定外」という認識が出てきたにすぎません。
例えば「庶民向けスーパーの、しかも割引になっているようなお団子だから、特に美味しいはずはない」といった想定が考えやすいでしょうか。
これめっちゃうまい
それは感想ですね。
「めっちゃ」でも「死ぬほど」でも、「月が青く見えるほど」でも「清水の舞台から飛び降りたと思ったら空を飛んでいたときみたいに」でも、何でもよいのです。
私たちが本当に頻繁に使う言葉なら「すごい、すごく」でしょう。
「うまい」というのも感想で、お団子を食べて「ほっこり嬉しい」という部分と同じところに位置しています。
む……まぁ、団子は「団子の味」がするわけだからな。
「うまい」かどうかは舌👅による。で、舌👅は人による。
京都の団子とかよりマジうまい
なぜ比べたのですか?
古都京都のお団子はきっと種類も豊富で、美味しいものもたくさんあることでしょう。
けれど、どうして近所のスーパーのお団子の味を評するときに、京都のお団子と比べるのでしょうか?
考えられる理由は、自分がした体験をよりよいものとしてイメージしたいという気持ちや、お団子の味を直接表現することが難しかったからなどでしょうか。
あんこやタレの味がする……というだけではいかにも貧弱な感想に感じるのも私たちの性質かもしれません。
今まで生きてきた中で一番うまい
それは……とてもよかったね(キュピーン)!
盛っちゃいけないのか
「盛る盛る」とばかり指摘するが、それじゃあわしらは盛っちゃいけないのか? 悪いことをしてるってのか?
盛ることが悪いことだ、避けなければならない、と感じる方もいるかもしれません。
けれど、それは当記事の文脈がそういう形に受け止められやすい流れになっているからであって、本当に目を向けるべきはどうして私たちは盛るのかという点です。
これについては、無数の答えがあるような気がします。
- 自分の経験を正当化したいから
- 誰かにもっと強く伝えたい、表明したいから
- いつもの癖で
A 自分自身の整理のため。あの時の決断はあいまいな部分もあったけど、丸一日悩み続けて出した結論だから、正しいのだ。
B このカレーはぜひみんなに食べてほしい。生まれてからカレーばっかり食べてきたと言っても過言ではない自分が、その中で最高にうまいと思ったんだもん。
C 俺のジーンズはもう20年も履いていてな、何度も繕いながらなのでもう元の生地なんてなくなっちまったようなもんだよ。
……三つ目の例はビミョウですけれど笑、こうやってどことなく(無意識でも)目的が加わっている場合に盛る可能性がありそうです。
「生のもの」に直接触れるとは?
それでは、盛ることなしに私たちは毎日の生活を送ることができるのでしょうか。
先ほども書いたように、盛ることは別に悪いことではありません。時にはそうすることで、より実態が伝わりやすいということもあるでしょう。
ようやくわしの出番だな!
まさに「坐禅」が狙っているところじゃないか!
管理人も詳しくはありませんが、確かに坐禅や瞑想などはこういう方向を目指している場合があるようです。
しかし、それでも「雑念を排した完全なる人間」のようなものが達成されるはずもなく、あくまで私たち自身がこの自分を生きていくことになります。
そのとき、盛ることも盛らないことも上手に理解しながら、生のものにも触れつつ生きていくためにはどうしたらよいのでしょう??
ちなみに「生のもの」とは、私たちが盛る前の「何か」を指しています。
哲学的なお話にするつもりもなくて、私たちがこうして普段生きているのだから、そういう「生のもの」に触れていないはずがないだろう、という発想で記述しています。
疑問を持つこと?
やはり、以上見てきたような目線を持つということがひとつの道なのでしょうか。
自分が語るときいかに「盛っているか」に気付けば、その背後にあるものへ自然と目が向くことになります。
「死ぬほど」うまいと言っていたお菓子について、「死ぬほど」が盛りすぎだすればどのくらいなのか、そのお菓子自体の味はどんななのか、自分がどう感じてそういう表現が出てきたのか……などなどを、もっと知っていくことです。
スマン……80年は盛ってた……。8年なんだ、伝承上は……。
昨今では、しばしばインターネットやSNS上で炎上と呼ばれる出来事が起こりますね。
これもまた「盛った」表現に対し「盛った」反応が返ってくることによって「大盛」「特盛」「メガ盛」とモリモリになってしまい、それを各自が受け止め切れなくなる現象だと思います。
いつもと同じまとめ方で恐縮ですが、
より自分自身のあり方を知ること
が大事だと考えています。
関連記事ーその他「福話術」など
ここまでお読みいただきありがとうございました!
今回もいつも触れているようでいて、実際どうなっているのか掴みにくいお話でしたね。管理人自身もさらにいろいろと確認していく所存です。
他にも、日々をちょっとだけ「福」に過ごすことができるような記事をご用意して(いるつもりで)おります。
こちらもお時間のあるとき、ぜひ遊びにいらしてくださいね。
(音楽関連の記事も多数ご用意していますので、ぜひトップページからチェックしてみてください!)