「勝ち」と「負け」とはセットだよ|人間であることの大切さ
ようこそいらっしゃいました!
当サイトでもそろそろなじんできたかと思われる【福話術】の第8回をお送りいたします。
今回の導入として取り上げる内容は、
勝とうとしているから負けるのでは??
というお話です。
勝ってこそこの世に生まれてきた甲斐があるってものだろう! 一体何を言ってるのか!
とお感じになる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
もちろん、それぞれの考え方や価値観に影響を与えようとか、文句を言おうとかという意図はありません。
ご興味の持てそうな方は以下も読み進めていただければと思います☆
勝てば勝ち組
どこぞの達磨は8年間だが、わしは80年間も坐禅を行い、いよいよこの世のあらゆるものを入手し、何でも好きなことをできるようになったのだ。
現代ではあまり聞かれなくなりつつありますが、お金を存分に稼ぎ経済的に富裕であることが「勝ち組」と言われることもありました。
年収○○○○万円のライン以上が勝ち組であり、△△△万円のラインより下は「負け組」ですよ。なので、あなたもわたしも負けないように頑張らなければなりません。
という論理がとてもたやすくまかり通っていました。
勝てば報酬があるという発想の出発点
勝ち負けはお金のことに限らず、他のどのような事柄でも見られました。
人里離れた場所で暮らすならばまだしも、ある程度の人々が集まる環境で生活する場合、早ければ幼稚園・保育園の段階で「勝ち負け」の勉強をします。
名前(対象) | 順位(勝ち負け) | ごほうび(報酬) |
---|---|---|
ダルマ師匠 | 1位(勝ち) | タラタラしてんじゃねえよ×10・名声 |
かんむりちゃん | 2位(勝ち+負け) | 甘イカ太郎×1 |
おうじゃ | 3位(負け) | なぐさめ |
駆けっこを例にとれば、上の表のように放っておいても順位がつきます。
それに対して、常にとは限りませんが、一定の対価となるごほうびが提供されます。
このとき「この駆けっこで勝つと『タラタラしてんじゃねえよ』がもらえるから、本気で頑張りなさい」などとは教えません。
けれど「何か頑張って勝てば報酬があるというものだよ」という仕組みや発想で駆けっこの運営がなされるのですね。
幼い頃当たり前に触れた発想や価値観が、その後の人間に与える影響は計り知れません。
一生涯、さらには何世代にもわたるものですから、この点を超長期間にわたって追いかけた研究さえ、いまだ存在しないはずです。
いつの間にか自分を置き去りにする
大げさな表現だったかもしれませんが、このような大小さまざまの影響を受けて、私たちは成長し、生きていきます。
その中で、知らないうちに「勝っているか負けているか」が重要な位置を占めることになるのですね。
そんなに勝ち負けにこだわってるつもりはないけどなぁ。
起きてご飯食べて仕事とか学校行って、普通に生活してればそこまで勝負したり比べたりすることってなくない??
当記事で目を向けたいのは、駆けっこのように分かりやすい「勝ち負け」ではないのです。
一歩進めてみれば、
なぜ私たちは駆けっこをするのか?
と言い換えてもよいでしょうか。
駆けっこの背後に
不思議なことですけれど、動物たちが「あの丘まで競争するぞ」と言って走っているのを見たことがありません。(言葉を発するかどうかという点ではありませんよ笑)
動物たちも荒野を駆け、公園を走り回って、互いに速さを競っているように見える場合があります。
しかし、たいていはそれはその場面で終わりではないでしょうか。
バウバウッバウウゥゥ~(先週はオレが勝ったから、今日はおまえは餌もらっちゃダメだぞ)。
という犬には出会ったことがありません。
その瞬間に、飼い主さんや他の誰か、さらには草原の向こうに獲物がいたから、先にたどり着き、あるいは仕留めた者が先にゲットするというだけです。
人間も、特に小さな子どもたちなどはただ走り回るのを楽しんでいることがあります。
そのようなあり方でいられないのはなぜなのでしょうか。
順位のある動物界―人間はそこにとどまるか
ライオンのオスが群れのリーダーとなり、敵からその群れを守る役割を担い、子孫を残す役目を果たすから、獲物の一番栄養ある部分を口にする。
ゴリラにせよ他の動物にせよ、同じような生活の仕方や社会の様式を持っているとして、なぜ人間もそれらの動物と共通するふるまいをするのか、という点こそがポイントだと思います。
人間だって結局サルなんだから、戦うときは戦うし、奪うときは奪うよ! それでいいんだよ!
という言葉がいかにも奇異に聞こえることから、わたしたちは心のどこかでこの辺りの問題を考えたことがあるのではないでしょうか。
(サルさんたちがそのようなふるまいをするかどうかという点は、正確な描写ではありませんのでお許しください。)
むしろ、人間が人間であるゆえに、他の動物たちと異なる活動のあり方をするという方が自然な気がしませんか?
真に人間であること
そうすると、本当に目を向けるべきは、私たちがどのように生きていくことが「真に人間である」ことになるのかということです。
分解すれば、ここにはいくらでも要素が含まれてきますね。どんな事柄に注目してもOKです。
お金、食べ物、車、家、家族、仕事、趣味、性、対人関係、研究、学問、スポーツ、商売、読書、恋愛……
順番もジャンルもカテゴリの大きさもまぜこぜで挙げてみましたが、他に私たちが思いつくもの、思いつかないものも全部含んだ地点を見て、人間であることとはどういうことなのか、をそれぞれが考えて感じ取っていくことが大切だと思うのです。
不戦でもない。不殺でもない。
人間同士が互いに戦い、殺し合うのは間違っていると言われることもよくあります。
しかし、この言葉が従ったり戴いたりする「ルール」のようなものとして意識されているならば、それはほとんど意味をなしていません。
なぜなら、ルールは必要があれば変更され、表向き変更されなくても特例があるし、従う人間の性質が多くの場合変化しないからです。
そうではなくて、この行為は人間がすることなのか判断がつく、あるいは人間であるからこそ、これこれのことは自然とやらない、というあり方こそが真に人間であることではないでしょうか。
訓練や修行のイメージではなく、何かしようというとき気軽にご自身にたずねてみてください。
「今しようとしているこのことは、
人間のすることなのか?」
と。
ルールとしてではなく、この表現そのものから、人間であることがどんなものなのかを味わうことができると思うのです。
今日……かんむりちゃんに告白することは、人間のすることか?
それはそんなに問いかけなくても別にOKじゃないっ??
このやり取りはジョークですが、例えばかんむりちゃんが何か難儀な事情を抱えていたり、その家族がダルマ師匠のことを嫌がっていたり(?)などなど具体的な状況に応じて、師匠は自分のふるまいが人間のすることなのかを判断するしかありません。
もちろん、いつも紅白の衣を着るしかないとか、一日の8割は座っていないとサマにならないとか、師匠側の事情も多々あることでしょう。
したがって、どこにも正解はないし、人間であることは○○ですなどと定義もできないことになります。
それぞれの個人が、完全に自分の責任(「責任」というと重たいですが、事実、自分の相手は自分でするしかないという意味で)において、人間であることを表現していくことになるでしょう。
むしろ素敵なことに思えませんか?
まとめ:勝ち負けの重視が人間のすることか?
ここまでお読みくださってありがとうございました!
福話術の趣旨の通り、今回のお話も管理人から何か皆様にお伝えしたり、お教えしたりなどという内容はありません。
あくまで、お読みくださった皆様が、例えば冒頭で取り上げた勝ち負けの点などについて、それが人間のすることか、人間にとって重視することなのか、などをご自身で問いかけてみてほしいと思います。
結果として、是でも非でも実は全く問題ありません。
そうやって、自分自身の考え方や感じ方、作用の仕方をじかに自分で見ることこそは、人間であることの大きな要素であるはずだからです。
長々とお付き合いいただいて、本当にありがとうございました☆
今回もある意味で「福あそび」のひとつかもしれませんね。
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