人物・物事の一面を切りとることのおかしさ
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして子どもたちと一緒に学ぶ「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
教育を起点として、人間生活全般にかかわる事柄についてできる限り端的にまとめていますので、どうぞお気軽にお読みいただければうれしいです。
小さいころにはテストや習い事、さらには技芸において点数がつけられ、そのあり方は大人になれば多くの場合職務上の能力評価などに置き換わります。
得点や順位、競争の結果に一喜一憂することは私たちが本来的に備えている性(さが)といっても間違いではないほどですね。
けれど、こちらを訪れてくれたあなたは「本当にそうなのだろうか」と疑問に思っているのではありませんか?
ある時期のパラメータだけ取り出す無意味さ
テストの結果は、そのテストを受けた当日のその人の状態が表現されたものです。
その瞬間までに積み重ねた努力やその日の体調、メンタルの調子などが総合的に反映され、その出来栄えをもって何らかの基準に照らして評価がなされるのですね。
やったッ! この間の坐禅テストで95点じゃったぞ! そのあとの喫茶テストは99点じゃ!
(注:坐禅やお茶は採点ともっとも縁遠い活動のひとつです)
このとき、
- テスト勉強ゼロなのに60点を取れているか
- 腹痛レベル10分の5でも70点を取れているか
- メンタルが劇落ちしているのに80点を取れているか
といった基準は(公的にはたいてい)採用されておらず、例えば学校の定期テストならばその科目の獲得点数のみで評価がされます。
テストの目的
しかし、古くから「テストばかりできて実力が伴っていない」などという批判が絶えないように、この類の試験の本質的な意義がどこにあるのかは難問です。
テストにせよ作品の講評にせよ、面接にせよ、その行為を通じて、試験を実施する側の求める何かを満たす結果が望まれているわけです。
実施側が望むものは大学合格率アップであったり、日本国に埋もれた才能の発掘であったり、自社の事業に有用な能力を備えた人材であったりします。
これら条件にかなう人材が広い意味で「高得点」を獲得できるようなシステムを作って、それを課すのがテストの根本的な意味合いでしょう。
それによってある種客観的に、受験者本人に効果が帰属する形で、不必要な人材を除外することができるのですね。
テストでは絶対に「その人」を描けない
ところが、私たちはいつでも変化していますし、誰でも成長の余地がありますし、どんな条件から予想外の結果が生まれるかなど分かりません。
幼いころ神童と呼ばれていた人物が、気がつけば平均的な能力の人と変わらなくなっていたという話はよくあります。
これは以前の記事(『最年少・最年長病を克服するための教育:自分の「想定」を知ること』)でも触れましたが、神童と呼ぶ側の基準に対して、成長したその人が見合わなくなったということですね。
反対に小さいころは全然注目されてこなかったけれど、例えば趣味(魚・虫・プラモデルその他いろいろ)に関する知識が異様に豊富なので、いつしか引っ張りだこになっていたという場合もたくさんあります。
社会が形成する「テスト」(要求・評価基準という意味で)もどんどん移り変わっているということですね。
とはいえ、たとえその都度変化しているとしても、テストから産出される結果は固定的であることを避けられません。
そういったテストをいくら数多く実施しても、モザイクのような人物像が出来上がるだけで、その人自身を描くことは絶対できないというのがここでの主旨です。
人は前後(の可能性)を含めてすべてその人である
したがって、仮に私たち自身や子どもたちが自分なりの人生をのびのびと生きることを支援したいなら、ある瞬間だけを切り取って人や物事を評価する癖に気づくことがとても大切です。
テストで一定の振る舞いをし、結果を残すことには、その人物がこれまで経験してきたこと、考えてきたこと、努力してきたこと(、さらに調子)などがすべて含まれています。
システムの性質上、基準に従って評価を下すことは避けられないでしょう。
でも、評価の対象である人物が答案用紙や文面・受け答えに現れた一面だけではないという点は胸にとどめておくことです。
以上の仕組みを理解できるよう正しく伝えることは、教育が果たす役割のひとつです。