【すべて自分次第で何とかなる】という言葉の境界を知ること:見極めの技量
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして子どもたちと一緒に学ぶ「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
教育を起点として、人間生活全般にかかわる事柄についてできる限り端的にまとめていますので、どうぞお気軽にお読みいただければうれしいです。
私たち多くの耳になじみやすい言葉に「すべては自分次第だ」「なんでも自分の気の持ちようでどうにかなる」というものがあります。
普段自分が想定する以上にこの言葉が当てはまる範囲が広いのは事実ながら、真に文字通りの意味ではないという感覚が誰の心にもあるでしょう。
特に子どもたちなどは、
「夢は必ずかなう」
という言葉に辟易(へきえき)しているフシもあります。
自分次第というのはどの範囲なのか、少なくとも「自分」で理解しておくことは生きていくうえで役に立つと思います。
「自分次第」という言葉の射程
学校・職場その他私たちが身を置く環境によって、そこに存在する人やものの割合は異なります。
出版社には読書の好きな人が平均よりも多いだろうし、病院ならば誰かの役に立ちたいと強く思う人の割合が大きいでしょう。
いつも身体を使う環境ならば腕っぷしに訴える人が多めだろうし、常に頭を使う職場ならば頭脳勝負の振る舞いがよくみられるでしょう。
ここから導かれる結論は、私たちが毎日を生きるそれぞれの場所で、どんなことが起きるのかは一様ではないということです。
「どんなことでも自分次第」という言葉の射程を見誤るのは、この当たり前すぎることを忘れてしまうからです。
ああ……今日も会社でひどい目にあった。しかし、自分の気持ち次第だ。
部長がわしの坐禅中に頭の上からコーヒーをかけてきたのだって、気持ち次第でよいことにも悪いことにもなる(全身紅いダルマになってしまったよトホホ)
すでにボールが投げられている場合
キャッチボール(テニスなどなんでもOKです)をしている例をとってもみましょう。
友人とキャッチボールをしていて、あなたはふと道を歩くシマウマに気を取られました。
えっ? こんな街の中にシマウマがいるはずないのに? シマウマって気性が荒くて飼いならせないんでしょ……?
と考えている間に、まさかキャッチボール中によそ見をするとは思わない友人は、あなたへ向けてボールを投げていました。
このボールはまっすぐにあなたの胸へ飛んできています。
シマウマが珍しすぎて、あなたはキャッチボールのことなど半分忘れています。
そして次の瞬間に起こるのは、ボールがあなたの身体のどこかに衝突するという現象ですね。
どの環境も、誰もがお互いにボールを投げている状態
このことはキャッチボールに限らず、私たちの暮らすすべての環境において発生していることです。
学校では○○という授業のため先生が準備をし、その始まりを告げるためのチャイムがスケジューリングされていて、授業という出来事へ向けてみんなが準備しています。
参加する生徒たちは家庭で何やかやと言われたり言われなかったり、怒られたり褒められたりして、しかも自分でハマっている本やらアニメやらゲームやら関心事を抱えてその場に集っています。
職場なら取引先とのやり取りで実行することになったプロジェクトの用意に何名もの人が駆り出され、あるいは他の人は休憩に外で一服します。
それらの人々の上司や家族や子どもたちや友人などと数々の話や議論やケンカや相談などをしながら取り組んでいます。
以上の積み重ねであり同時に背景でもある社会・世界として目指している方向、流れていく道筋が存在するし、もっと物理的な意味でもこの地球や宇宙が何らかの仕組みで刻々と変化を続けています。
これらすべてに「自分」が関与していると考える方が不自然ではありませんか??
よく見極めること
したがって、もし真に自他の教育のことを考えるならば、何が自分次第でどうにかできることであり、何がそうでないのかを見極める力をはぐくむよう心掛けることが大切です。
お友達が納豆臭いのは朝ごはんにお母さんの出した納豆を食べてきたからだし、上司のお口が臭いのは昨晩飲み過ぎたからかもしれません。
シマウマ……ではなくトラウマなども、私たちにとって身近ながらなかなか自分でなんとかしにくい事柄のひとつですね。
「自分次第でなんとかなる」という法則もゼロか百かではなく、その分かれ目がどのあたりにありそうか、別の言い方をすればどのあたりで自分の腑に落ちるのかなどにも敏感になることです。
自分が「夢」という名で呼ぶものは、どの地点まで含んでいるのかをよく知ること。
これがひいては私たちみんなが生きる社会のあり方を形作ることにつながっているという理解を促すことも、教育の大きな役割だといえます。