【教育の意味】自分のふるまい全てが教育であるということ
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして「現役」家庭教師である管理人が、教育について重要と考えることをお伝えしています。
日本においてのみならず、人がこれからも生きていくうえで不可欠な内容のみを厳選し、できるだけ端的にまとめていますので、どうぞご参考になさってください。
また、教育をする側も受ける側も、自分自身で味わい、判断するということを忘れないようにしていただきたいと思っています☆
自分のふるまい全てが「教育」である
まず私たちが注意しなければならないことは、私たちのふるまい全てが、自分自身や子どもたち、周囲の人々にとっての「教育」となるという点です。
「あの親にしてこの子あり」などと言われることがありますが、これは○○というふるまいをする親に育てられたから、子どものほうも○○という人間になるよね、という意味です。
例えば、赤信号でも車が来なければ渡っちゃおうという親のふるまいを子どもは学び取り、親と一緒でなくても同じふるまいをするようになるでしょう。
でも、車が来ないんだからいいじゃないか。わしなど道路の真ん中で坐禅を試みたことがあるぞ。
行動の善悪ではなく法則である
良い悪いという話をここでしているのではないことに注意してください。
もっと単純なことで、私たちがあるふるまいをすれば、それを目にする人々はそのふるまいに対して何らかの応答をするということです。
それは一切気にかけないという応答かもしれないし、不快に思うという反応かもしれないし、次に自分が同じ場面に遭遇したら同じようにふるまうということかもしれません。
いじめや差別も同じ現象である
この目線で見ていくと、教育界だけでなく人間の世界で古くから問題とされ続けている「いじめ」や「差別」も同じ法則が作用していると分かります。
一対一でののしったり暴力をふるったりすることは、もちろん取り巻く状況によることですが、いじめというよりは「ケンカ」ですね。
これを目にした他の人々が「あの殴られているほう(A)は弱いのだ」「自分も強いほう(B)につかないといじめられるかも」などと考えて、しだいにBと同じふるまいをするようになるのです。
力の差が歴然としている相手を攻撃することを「いじめ」と呼ぶ余地もあります。
しかし、力の差はそれを計ることができなければ判明しないのですから、なぜ「もともと弱い」と分かっているのかという点に着目すべきだといえます。
ここにも上に述べたような法則が作用していることにお気づきでしょうか。(その存在を「弱い」カテゴリーに含める私たちの意識)
自分自身への理解こそが重要
以上から、私たちが本当に子どもたちを教え育てることに関心があるのなら、私たち自身のふるまいに目を向けることが最優先事項となります。
これはどんな塾に通わせようか、どうやって勉強をさせようかなどという問題のずっとずっと前提にあるものです。
親や先生が表向きどれほど一所懸命に正しいことを教えても、その背後にある考え方や意識まで含めて子どもたちや周りの人は取り入れます。
教室ではいかに熱血・誠実であろうと、人のいないところでガムを道端に吐き捨てるならば、そのふるまいは無意識に自分をも「教育」し、かならず子どもたちに伝わります。
教育は、私たち自身を教えるところから始まるのです。