私たちの幸せはどこにあるのか|幸せとはなにか
ようこそいらっしゃいました!
今回は、本年のお礼もかねて【福話術】の第4回をお送りしたいと思います。
取り上げるテーマは、
「幸せ」はどこにあるのか
あるいは何なのだろうか、というものです。
「幸せは♪歩いてこない……♬」という有名な歌詞もありますが、実際はどうなのでしょう??
皆様は幸せを求めていますか?
それぞれに幸せを感じる場面や事柄は違うと思いますから、ここでは「幸せ」に対する見方・考え方を確認してみましょう。
普段は意識しないような(人によっては失笑なさるかもしれない)前提的な切り口・トピックでみていきます。
幸せとは
日本国憲法13条(後段)にも、幸せを追求する権利が明記されています。
しかし、当然ながら幸せの「内容」については定義されていません。この憲法の条文に関していえば、各種の権利的な要求が国民から現れる場合に、その拠りどころとして参照されるのが通例です。
私たちの「幸せ」は、そもそも定義できるものなのでしょうか?
幸せは感情か
まず、幸せは感情なのでしょうか?
僕めっちゃ幸せーーーーーーー! 涙出ちゃう~~~~~!
などというときには、ここで生まれている感情を「幸せ」と呼んでいる感じがしますね。
この感情をひとりで、あるいは誰かと一緒に味わって、しばらくすれば他の出来事が現れてきて(例えば帰らなきゃいけない時刻とか、腹痛とか)、落ち着いてきます。
中には、帰宅してからも何度も思い出して「幸せ」を噛みしめる方もいることでしょう。
この捉え方によると、幸せは瞬時に生まれたり消滅したりする、実に不安定なものになりそうです。
幸せは物理的な現象か
それでは、幸せは物理的なものでしょうか?
もし物理的に「幸せ」が存在するとすれば、目に見えたり、肌に感じたり、耳で聴いたりすることが可能ということになります。
元旦の冷えて澄み渡った空にそびえる白妙の富士山を眺めて、幸せを感じることもあるでしょう。しかし、富士山そのものは「幸せ」ではありません。
富士山こそが幸せです!(そこに山があるから。)
という方がいらっしゃいましたら、皮肉でも嫌味でもなく、その方はとても幸せなはずです笑
大好きな人と手をつないだとき、幸せを感じることもあります。しかし、その手やお相手の方自身は「幸せ」ではありません。
すばらしい演奏やコンサートで感激し、熱狂し、幸せを感じることもあります。しかし、その音色やパフォーマンス自体は「幸せ」ではありません。
鋭い方は論の運びがお分かりになったかもしれませんが、以上と同様に、金庫や銀行にたんまりと貯まったお金(交換価値)も「幸せ」とはいえませんね。
このようにみてくると、「幸せ」は物理的な現象ではないようです。
幸せは可能性か
自分の望むことができるということ、現在でも、将来でも、その望む何かをおこなえるというあり方(状態)が「幸せ」でしょうか。
わしはタンス貯金をたっぷりしておるから、いつでも隣町へ旅行に行けるし、スシローにも行けるし、スタバだって行き放題だぞ!
これはなかなか可愛らしい発言ですけれど、スケールを大きくすれば、
- 大会社を幾つも買収出来たり、
- 宇宙旅行へ行けたり、
- オリンピックで金メダルを取れる運動能力や精神力を保有していたり、
- 気になったお相手誰とでも結ばれることができたり、
その他無数の可能性があることが「幸せ」なのでしょうか。
この捉え方は、一定範囲で当を得ている感触があります。
小さい子どもたちが基本的に幸せなのは可能性が限定されていないからだ、という理解は、ある程度正しいでしょう。
その状態から、学校なり習い事なり、親の家業なり見栄なり、あるいは本人自身が抱え込んだ考え方なりで可能性がどんどん狭められ、ちょっと疲れた大人になっていくわけです。
もちろん、誰でもじゃありませんし、どこに責任があるというお話でもありません。これもまた「可能性」のお話です! ……けれど、きっとお分かりになるところもあるはず。
ここでは何かの答えを出したいのではありませんので、私たちがどう考えることができるのかをイメージしてみましょう。
仮に可能性があること自体が「幸せ」ならば、幸せを求める私たちは、可能性を広げる方向に発想し、動くことになるはずですね。
しかし、実際にはどうでしょうか? 私たちは日々、新たな可能性を求めて活動しているでしょうか??
例えば管理人(おうじゃ)などは、日々の食事さえ似通ったものになっています。
お米を毎日食べますし、お味噌汁も欠かせません。メニューの内部で素材の入れ替わりなどはありますが、何か可能性を広げようとしている感じでもありません。
この例は少々個人的なものでありすぎるとはいえ、皆様にも似たような心当たりはありませんか?
そうすると「新しい」可能性を拓くことがただちに「幸せ」なのでもなく、可能「であること」やそれの保持が「幸せ」に該当することになるでしょうか。
「何が」可能ならば幸せか
では、その可能「であること」が対象とする内容はどのように決まるのでしょう??
可能か不可能か、可能性があるかないかということは、何か事柄が想定されなければ検討することができません。
上のダルマのようにタンス預金をいくら抱えていようと、無人島でひとり暮らしているならば、想定できる行為は海で泳ぐ、寝る、身体を焼く、木の実を食べるという程度ですから、可能性の幅はそう大きくなりえないでしょう。
田舎or都会?
ここで、例えば都会暮らしや田舎暮らしという表現を導入してみるのが参考になりそうです。
皆様は都会で暮らすことが好きですか、田舎の方が好きですか?
よく対比されるように、都会は楽しいことがいっぱいで刺激的です。新しいものもどんどん生まれ、集まってくるという意味で、たくさんの可能性が存在しています。
一方、田舎は毎日が同じことの繰り返しで、時間がゆったりと流れ、美しい河川や山々とともに静かな時間を過ごすことができます。都会で生まれているような可能性は少ない傾向にあるでしょう。
わしは断然「都会」! ダンスホールで夜な夜な踊るんだ! コンサートもなかなか地方まで来てくれないからな。
私は「田舎」かなぁ。あんまり人が多い場所は得意じゃないし……。たまにならいいんだけどね。
ここでの都会と田舎の対比はデフォルメしていますが、これらの応答をみると、人それぞれ「どんなことについて」可能性があるか、という点を重視していることが分かります。
その内容の「源泉」こそが幸せ
当初の想定通り、幸せは一義的に定まるものではないようです。
直前でみたように「可能性がある」ことさえも、どんな事柄についてなのかという条件がかかります。どんな条件がどのように付されるのかは、人それぞれの生い立ちや考え方、もろもろの背景によるのでしょう。
そうすると、この条件を自分で作り出したり、気付いたり、発見したりすることこそが「幸せ」といえるのかもしれません。
- 外に出るのが億劫だからあまり外出しないでいたけれど、ひょんなことで旅行に行ってみたら、その土地の人たちと話すのが楽しくて楽しくて、いつの間にか次の旅行が待ちきれない。
- 自分には画才などないと思っていたけれど、子どものお絵描きを見ていて試しに描いてみたら、意外と描けて時間を忘れてしまう。
- 音楽はCDやプレーヤーで聴き込んでいるし、コンサートやライブなど行かなくてもいいと思っていたけれど、実際にアーティストの歌声や演奏を聴くとまた味わいが全然違って、気付いたら推しになっていた。
自分でも知らなかった「自分」
これらの例では、自分自身が考えていた「自分」と異なる面が自分に含まれていたことを示唆しています。あるいは、新たな自分が発展したことを。
すなわち、「あなたが本当にあなたであること」が幸せなのではないでしょうか。
ここで「本当にあなたである」とは、何かイメージしてそのようになるのを目指す偶像ではありません。
あなた自身の源泉から生まれてくる、人間としての、生命としての輝きなのだと思います。
したがって、他の人と同じものが好きだとしても全くあなたは個性的な光を放ちますし、逆に他の人と全然違う個性を示していても、その輝きは誰のうちにも含まれているものといえます。
こうした自分自身の深みや、その自分が暮らす生活の味わい、自分の周りにいる人々や環境、それらすべてを大切に生きることに「幸せ」が存在するのだと理解すること。
個人的にこの捉え方がとても素敵なのではないかな~と感じています☆
皆様はどう思われますか??
(⇒関連記事:AIに仕事を奪われる?【私たちはすでにAI】なのでは??)
まとめ:歳末のごあいさつ
ここまでお読みくださって本当にありがとうございました。
今年(2022年)の6月から本格的にスタートした当サイトですが、皆様の温かな応援に支えられてここまで継続することができました。
また来年も、村下孝蔵さんや他のミュージシャンの方々、さらにいろいろなトピックで記事を作成していこうと思っております。
どうぞ、今後とも当『おうじゃの福眼』をよろしくお願いいたします!
皆様が幸せに年を越され、来年もさらなる飛躍をなさること、祈念しております。
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