論理オンリーはロンリーlonely
ようこそいらっしゃいました!
今回は【福話術】の第三回ですね☆ 取り上げるテーマは、
「論理」はロンリーである
という、仮に真顔で宣言すればそれこそ lonely になれそうなお題です。
皆様の周りにも論理を偏重している方はいませんか?
皆様自身も、知らず知らず論理に頼った考え方をし、それに基づいた生活を送っていませんか??
その辺りをあえて振り返ってみようというのが当記事の試みです。
なお、これまでに【福話術】で扱った内容は以下の通りです。
今後も少しずつ増やしてまいりますので、なんとなく目に留まるものがありましたら、ぜひご覧になってみてくださいね🎈
それでは、実際の中身に入ってまいりましょう!
“論理はロンリー”
一口に論理はロンリーといっても、その意味はさまざまであり得ます。
論理ばかりでは寂しいという意味にも取れますし、ロンリーな人は独自の論理を胸に抱えているという意味にも理解できます。
ここでは、“ロンリー”(lonely)を「ひとりぼっち」の意味を中心に把握しておきましょう。また、“論理”はそのものずばり、ロジックとしての「論理(性)」を指すとしておきます。
すなわち、
「論理性」は「ひとりぼっち」だ
ということの意味合いを以下でみていくことにしましょう☆
一個手前しか連れて歩けない
まず一つ目です。一般的には論理はとても堅固なもので、かっちりとした存在感を持って捉えられている気がします。
「論理的な人=頼れる人」だとか「論理的な文章=信頼できるもの」など、論理を正しく含んでいる事柄には高い評価が与えられることが多いです。
理屈っぽいヤツはろくすっぽ信用ならない!
というような人はややまれでしょう。
他方で「非論理的な話は信用に値しない」、「ちゃんと論理的に言ってくれないと分からんぞ」など、論理的でないことはどちらかといえばよろしくないものとして認識されがちです。
ところが、これらの場面で注目されている「論理性」から一歩引いて眺めると、論理はその論理自身の「一個手前」の論理しか引き連れることができないことが判明します。
その例
例えば、
という論理の流れは、常にひとつ手前の内容を拠り所にしています。
最初の「カレーが好き」は私の性質だとして、それを根拠に、夕飯をカレーにすることに決める。
続いて、「夕飯をカレーにすること」を根拠に、「スーパーに立ち寄る」という内容が導かれています。
ここに取り出した「論理」のスジにおいては、夕飯をカレーにすることの根拠は他に存在しないのです。
この意味で「論理性」はその内部に自分の手前(の連なり)以外のものを含むことができず「lonely」です。
自分の見知ったものしか知らないわけですからね。
(まったく関係のない参考楽曲です笑 息抜きにどうぞ)
実体がない
また、上にも書いたように論理は重要視されますが、本来は実体を持たないものです。
論理的である場合にそこに「論理がある」としか呼べないのだ、と捉えてもよいでしょう。
例えば、
という論理(???)は、この見た目で分かるように、それ自体として意味をなしていません。
……とお考えになりましたか? 実は、ここに「論理」が実体ではないということの答えがあるのです。
というのも、上の文章の流れを見て
- 「火星を舞う土埃は本当はカレー粉なんだ、それをみんな知らないだけなんだ」とか、
- 「そのカレー粉は細かくて肺にも入り込むから、水泳で肺活量を高めて対応するんだ」とか、
独自の理由付けを思いついた方もいるだろうからです。
ここで何が起きたかといえば、私たち自身がこの文章に「論理の流れ」を補ったのです。
その補った論理が自分の理解できるものであれば、その文章は論理的だということになりますし、そうでなければ非論理的ということになります。
子どもたちに論理的に語って聞かせても全然言うことを聴かないことがあるのは、彼らがこの辺りに気付いているからかもしれませんね。
これは科学的な事柄にも当てはまるでしょう。
前提としている理論や性質や物質のあり方と矛盾するようにしか読み取れない結果の場合は論理的な帰結ではないと扱われ、その逆ならば論理的に順当な望まれた結果ということになるでしょう。
ソクラテスの三段論法でさえ、同じことがいえます。
「人は死ぬ、ソクラテスは人である、だからソクラテスは死ぬ」という論法も、この三段階のそれぞれについて「意味が分からなければ」、例えば風の音や「音がしないこと」と同じなのです。
このように「論理」はどこまでいっても私たちの「頭の中」の出来事で、取り出して触れられるような実体はないから「lonely」です。
ちなみに管理人は論理「学」に関してはほとんど何も知りません。その分野においておこなわれ、構築されていくものについて、何らの意見をするものでもありません。
だからこそ果てしなく発展する
ほんの数百年前には電車もなく、車もなかったのに、今では遥か宇宙のかなたの様子まで見て取れるような技術が生み出されています。
これらは人間が自分自身や身の回りのものなどに対して「意味を与え」、そこから「論理的に」生まれる希望を求めたり、反対に「論理的に」否定したりする活動の中で発展してきたものです。
こうした人間の頭脳の営為の力はすさまじいので、果てしなく道を拓いていくことができるでしょう。
一方で、すでに言われるようになって久しいことですが、論理や理屈だけで物事を進めることは危うさを含む場合があります。
そんなわけで、“論理は論理オンリーではlonely”だということを、ちょっと頭に入れておくとよいバランス感覚で進んでいくことができるのではないでしょうか、というお話でした😊
(もし当記事の内容がお好みでなかったら、論理などかまわず一笑に付してくださいね!)
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