「福あそび」が帰ってきた!自分にも愛を向けて【福話術12】
ようこそいらっしゃいました!
当サイトのメインコンテンツ(毎度言っていますけれど)である【福話術】第12回をお送りしますね☆
今回取り上げたいテーマは、皆様お待ちかねの
福あそび第二弾❣
前回の福あそびは楽しんでいらっしゃいますか?(「福あそび」をしてみませんか|知らない人にやさしい言葉を・福話術第6回)
知らない誰かに向けて、全く相手に知られることなく、やさしい言葉をかけてみるというあそびでしたね。
今回は、その言葉・気持ちを自分にかけてみようというあそびです。
自分のここがいけない、ダメだ! など、逆の「あそび」をしている人が多いと思いますので、ぜひ試してみてください。
早速一緒に見ていきましょう!
福あそび第二弾!
先日の記事でも紹介しましたが、改めて「福あそび」について確認しておきましょう。
基本的な要素として、前回は
- 知らない誰かに向かって心の中で語り掛ける
- 語り掛ける言葉は「素敵な」もの
- 見返りを求めない
というものを掲げました。
このうち、①を取り除いたものが今回の「福あそび」です。あるいは、自分に向かってという要素と交換したと考えてもよいでしょう。
(上達してくれば、他の誰かに対してなのか自分に対してなのかはあまり大きな意味を持たないのがお分かりになると思います。)
自分に語り掛ける
②と③の要素については、ぜひ前回の記事をご覧いただきたいのですが、ここでは新たになった①の要素についてみていきます。
自分に語り掛けるというと、中には疑問を感じる方もいるかもしれません。
「自分」ってなんのことだ? 「私」のことか? この「わし」か?
それとも『ダルマクエスト・オンラインⅢ』のアバターのことか??
この点は心理学の分野でも長年決着をみていない事柄ですね。
けれど一方で、私たちそれぞれこそが最も「自分」に近い場所で生きているわけですので、その私たち自身が「自分」が何たるかを理解するのがベストともいえるでしょう。
つまり、ここで管理人が答えを提示することができません。
今これをお読みくださっているあなたが「自分とは何か」ということをとらえるしかありませんし、それで全く十分だということですね。
厳密には「自分」に語り掛けるのは困難?
そこで、もう一歩進んでみると、この自分に語り掛けるという行為は案外難しいことが感じられてきます。
いいぞ、わし。わしは素敵だぞ~、おっと、よそ見していてお地蔵様に自転車をぶつけてしまった……それもいいぞ~「わし」。
ふふっ、ついには隣の寺からお布施をちょっと失敬してしまった。それもいいぞ~「わし」。
これでは単にダルマが頭巾をかぶっただけなので、ここでの趣旨と外れてきます。(共通している部分はあるのですが、なんとなく違うことは感じていただけるかと思います。)
とにかくこう言うんだ。
「おうじゃは素敵、おうじゃは素敵、おうじゃは素敵」
ある種のアファーメーションですね。これも自分になじんでくればとても効果があるといわれていますし、実際におこなっている方もいることでしょう。
他方で、ばかばかしくなってやめてしまうという方も多いですね。
これならどう?
「今日はきっといいことあるよ、のんびり構えて気楽にいこう♪」
もちろんその人の内心の状態によりけりなので微妙なところですが、これはもはや普通の願望を口に出したのと区別がつきにくいです。
以上のようにみてくると、「自分にやさしい言葉を掛ける」という場合、私たちは何らかの行為を思いついて、実践することができるのですけれど、そのどれもに付属品がくっついてきがちだということが分かりますね。
また、言葉を使って語り掛けると、私たちの脳は事柄に対して応答が生まれてきやすい性質を持っているようですから、反対のことを考えたり自分で答えたりするということも起きがちです。
わしは「完璧」だ。80年も坐禅をおこなってきたし、それでいてこの美貌も損なわずに生きてきた。
(けど、最近はちょっとおでこの拡大が気になるし、……いや、それももちろん「髪の毛がある方が若々しい」っていう基準を自分で持っているからだって分かっているけどな……。)
だから「愛」する
ですので、自分に対しておこなう「福あそび」は、むしろ言葉をつかわずにただ「愛する」ということが適切でしょう。
どんな行動をとったり、どんなことを考えていたり、何を感じていようとも、そういう「自分」が意識されたら、それをそのまま愛してあげるのです。
文字通り「愛する」こと
愛という言葉ほどに多義的なものはありません。それは、どんなものも含んでいるからだと思います。
だからこそ他の言葉で説明せずに、私たち自身が感じ取る、すなわち「愛する」ことが大切です。
受け入れるとか、認めるとか、許すとか、いくらでも同じ性質を持った表現は存在するのですが、やはり「愛」するという言葉そのものが一番適切だと感じています。
何を指すのかうまく言えないけど、どういうわけか私たちは「愛する」ことができるようなのです。
たいてい、自分の趣味であったり好きなことであったり、自分の恋人・家族や子どもであったりを念頭に置いて愛するという表現が用いられます。
でも、私たちはもっと「愛する」ということそのものに気付くことができるはずです。
「愛」は生来の機能
広く一般に検証された例はないと思うのですけれど、どうやら私たちにはもともと愛する機能が備わっているみたいなのです。
そうであるからこそ、愛することは私たちにとって当たり前すぎて、現在の世界ではそこから遠ざかるゲームをみんなでやっているのですね。愛するという当たり前のことを深掘りして、別の言葉で言い換えてみたりするのも同じことです。
福話術のいつもの落ち着きどころですが、やっぱり私たちは私たちそのままであること、つまり自分の振る舞いを愛していることが最高のあり方だと思います。
そうすることで他者にも愛を向けられること、こういった人間や生命の自然な様子を、たまには再確認すると生きやすいかもしれません。
まとめ
ここまでお読みくださってありがとうございました!
改めて、ぜひ皆様なりに「愛する」という表現そのものを感じ取ってみてください。どれだけ追究しても茫漠としていて掴みどころがありませんけれど、必ず、自分で考えていた以上の何かを感じることができますよ。
それでは、皆様にたくさんの福と愛がありますように(……ちょっと卓球を思い出すのは管理人だけ?)☆
ちょっとした音楽(おまけ)
管理人が一時期とってもハマった楽曲です!
冒頭からの度量の大きな(?)広々した演奏がすばらしいですね。
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