「お金」が消え去る日【頭の体操】
ようこそいらっしゃいました!
いよいよ当サイトでも話題の(?)【福話術】が10回目を迎えました。
今回は抜本的なテーマを取り上げようと思います。
「お金」がなければ世界は回らないの?
少なくとも管理人が生まれたときには、すでに「お金」という発想が身の回りにあふれていました。
飴玉を買うにも小銭が必要で、親が家を建てるときには住宅ローンが必要で、旅行には小切手やクレジットカードが欠かせなくて、政治とカネは切っても切れません。
このような「お金」のあり方が、どうして私たちの生活に浸透しているのでしょうか。
学術研究的な視点からではなく、とても単純に、一緒に考えてみませんか?
なぜ「お金」が必要なのか?
まず、どうして現代の社会にお金という枠組みが必要なのでしょうか。
無数の理由があると思いますが、ここではパッと思いつきそうなものを取り上げてみましょう。社会システム的な側面と心理的な側面がありそうです。
物やサービスを交換するため
将来に備えるため
あの子の気を引くため etc…
物やサービスの交換のため
おそらく一番最初に思い浮かぶのは、それぞれが保有したり生み出したりしている物・サービスを互いに交換する媒介としてお金が必要という理由でしょう。
今日もわしの気に入りのコロッケ……100円でゲット!
商店街やスーパーでのお買い物・通販に、いろいろな事業における素材・原料のやり取りなど、お金と引き換えに交換されているものは数知れません。
コロッケ程度ならば、もしかしたらたまに無料でもらえたりするかもしれませんし、お手伝いしたお駄賃代わりに食べさせてもらえることもあるかもしれません。
けれど、大きな取引となるとそのような柔らかいやり方ではリスクが大きくなるので、きちんと見合った額面を合意してやり取りしようということになるわけですね。
実は不安のせい
ここで考えてみたいのです。
取引をする際に、納品書や請求書や領収書など、支払われるべき金額や、取引があったことを証明する文書が作成されることがありますね。
現金を支払ってその場で物を受け取り、きれいさっぱり終了というコロッケならばせいぜい領収書くらいですが、規模が大きく時間や場所が一定でない(一度に納入できない・対面でない・将来生産されるものを売買するetc…)取引となれば、前提として契約書がカッチリと交わされることも多いです。
お互いが気持ちよく取引をするため、これは当然のこととも素直に思うのですが、改めて検討すると、なぜなのでしょうか?
なぜ「後ほどこちら(あちら)がお金を支払う(受け取る)」という約束を交わしておかなければならないのでしょうか?
だって約束して書面にしておかないと、ちゃんと払ってもらえるか不安だから……。
根本に怖れがある
そう、この部分なのです。
私たちが約束をきっちりと取り付けておいたり、書面の形にしてそういうやり取りがあったことを確定させておきたいのは、
根本に怖れ・不安があるから
なのではないでしょうか。
仮にこちらが売る側で、お客さんに商品を納入するという場合、先に渡してしまうと後から代金を支払ってもらえないかもしれません。
サービスを提供する場合も、事前や直後にお金をもらうのでなければ、そこで自分が行ったサービス(掃除でも運送でも接客でも)が一方的な真の意味の「サービス」になってしまう。
真のサービスをするだけでは、遅かれ早かれ自分のお金やストックが尽きて、万事休すである。
わしが坐禅をするのは、見世物でも誰に対してのサービスでもない。
だから代金など要らんのだぞ(くれるならもらうヨ)。
もし、このような心配がないと仮定したらどうでしょう。
先に品物を渡したとしても、必ず後で代金を支払ってもらえる。サービス分の料金も必ず後で入ってくる。つまり、自分が「縮小・衰退」することはない。
自分が先に提供しても一方的に損をする不安が存在しないのならば、私たちは喜んで何でも提供するのではありませんか?
親子関係など
そうは言っても、現実にはそうなってないじゃん。お金が絶対支払われるっていう保証なんてないし。
ここでの仮定は頭の体操にすぎず、ご存知の通り社会の現状はこれとはかけ離れたものです。
ただ、親子関係などを考えてみると、この仮定がそこまで不自然な夢物語ではないことが分かるのではないかと思います。
生まれたばかりの子どもは、私たちに何も経済的な利益をもたらしてはくれません。けれど、私たちが子どもを可愛く思う気持ちは間違いなく存在しますね。
よく言われることですが、こうした子どもたちに対する親(大人)の立場からの気持ちは、少なくともはじめのうちは見返りを求めない無償のものです。
これは親の側が、自分の愛情を子どもにどれだけ注いでも、自分が「縮小」することがないと理解しているから、その不安がないからだとは思いませんか?
事柄自体には「お金」は絡んでいない
少し視点を変えて「お金」について考えてみると、例えば家を建てるとき、それ自体にはお金は関わっていません。
(札束とコインで作ったお家なんて、見た目通り文字通りもろすぎますよね笑)
私たちがお客さんや誰かのために品物を販売したり、運んだり、調理したり、分析したり、解体したり、ともに話したり、コンサートを楽しんだり、学んだり、帳簿の計算をするときでさえ、その行為自体には「お金」は関わっていないのではありませんか?
これらの場面で私たちが触れるのは、品物や運搬物や素材やデータや、人物や演奏です。
お金のことを考えながら作業をするということはあるとしても、私たちが生きている活動の中において、お金そのものが現実に関与できる部分は本当は存在していないのです。
そうすると、わしらの生活に直接かかわる金……金箔をはったカステラくらいか。
でも、その金箔も食べたらなくなるし「金」そのものさえ王水(塩酸と硝酸の混合液)で溶けるのですよ?
「お金」は私たちの概念にすぎない
したがって、このように自分たちの身の回りを見渡して検討しただけでも、お金は私たちの頭の中にあるものにすぎないという結論にたどり着かざるを得ません。
自分の食い扶持・取り分がなくなるかもしれないという不安に対処するための、私たち人間が発明した概念です。
お金がいかにも概念であることを確認するため、例を考えてみましょう。
- 誰かからお土産をもらったとき「嗚呼……こんなに高いものを」と、金額について喜ぶこと
- 大作映画を観たとき「嗚呼……こんなにお金かけるなんてすごい」と製作費に感動して涙を流すこと
- スポーツ選手を目にしたとき「嗚呼……あの人こんなにお金もらうなんて、ホントに大ファンだ」と年俸について胸を熱くすること
お土産の例など、値札は外して渡すものだというご指摘はこの際ご容赦ください。
上に挙げたものは、日常の場面を探るとありそうに見えるし、あったような気もするけれども、少し視点が異なっているように感じませんか?
「お金」の奥にあるものを見ている
つまり、私たちはお金を尺度にものを見ているようで、実際は意識しなくともその奥にあるものに触れているのです。
お土産が見た目に素敵な品物であったり、映画の出来が見事だったり、スポーツ選手のプレーがハイレベルだったり、本当に味わう段階ではお金のことなど介入してきていません。
このことを思い出すのがとても大事だと感じています。
思えば小さい頃、何も求めず毎日砂場で寺を作って遊んでいた……。わしはいつからそれに賽銭箱を添えるようになったのか……。
頭の体操|お金が存在しないなら……?
ここまで一緒に確認させていただいたところで、さらに頭の体操をしてみましょう。
「お金」が存在しないなら、私たちはいかに生きるか
皆様はどう思いますか?
仕事なんてしてられない! 手元にあるものを売るわけにはいかない! だってそれによってお金がもらえないんだから!
という方もいらっしゃるでしょうか。
しかし、それはまだ「お金」という発想を含んだ見方をしてしまっているからです。
お金が存在しなくても、例えばいまご家庭の冷蔵庫にある食べものを口にすることはできますし、水道をひねれば水が出ます。(滞納で止められた……! というのはナシですよ笑)
お金が存在しなくても、隣にいるパートナーや友人、家族と会話することはできます。
お金が存在しなくても、材料があれば建物を建てられますし、演奏できますし、料理もできます。
だからその材料を入手するために「お金」が必要なんでしょ?
本当にそうでしょうか。
この一ヶ月のお買い物で、どれくらい現金を支払いましたか? キャッシュレスで決済し、品物やサービスだけ受け取った方も多いのではありませんか?
その事実だけをとらえれば、私たちはすでに「お金」を直接に気に掛けることなく、毎日の暮らしで品物や材料を交換し合っているのです。
それはカードの利用情報としてネット上で帳簿がついてて、後で口座から引き落としになるんだろうが。
ここがポイントだと思います。
すでにキャッシュレス化も進み、日々の生活で以前ほど現金に触れる機会がなくなった現在において、「お金」は銀行の預金残高や帳簿上の数字などに集約されつつあります。
このことは、お金が概念であることを決定的にしているのではないでしょうか。
もはや目に見えないものになりつつあるお金だけれども、私たち自身が、自分や他人、物事の価値に枠組みを与え、不安に対処するために、まだ利用し続けている概念だということが明白になってきています。
私たちの自然な想いを妨げる
ですので、もちろん一朝一夕に変化するものだとは思っていませんが、次のように問いかけることがやはり人間のあり方を一歩進めるものになると考えます。
「お金」という発想がなければ私たちは生きられないのか
と。
- 代金が支払われないと分かっていれば、その品物を相手の人に渡すのをやめますか?
- 給料がもらえないなら、その仕事をするのをやめますか?
- お金が手に入らないなら、誰かに料理してあげるのをやめますか?
もしそうならば、社会にいろいろな交換や交流を生むためのものであるはずのお金は、もはや私たちの活動を妨げるものになってしまってはいませんか?
予算や決算のための数値管理、帳尻合わせこそがお金の実体になり、それによって私たちの生活が支配されつつありませんか?
むしろ、お金という発想があるがゆえに不安になっているのではありませんか?
すでに変化してきている
冒頭のテーマ設定の流れから、お金が諸悪の根源であると言いたいのだとお感じになる方もいるかもしれません。
けれど、そうではなくて、あくまで私たちがこのように、普通に生きているその活動こそが先にあるのではないだろうかということなのです。
管理人もお金たっぷりは好きですよ☆
その媒介として「お金」をうまく活用できるならばよいけれども、すでに人間はその域を脱しつつあるのではないかとも考えています。
投げ銭の例
少し前から、例えばYouTubeでも「スーパーチャット」と呼ばれる投げ銭の仕組みが導入されました。
観客が自分の気持ちを表現するため、演者などの舞台に投げ込む金銭。
これは、ユーチューバーさんのパフォーマンスやお話、企画が面白いからその対価として投げているという面も確かにありつつ、むしろ投げ銭そのもののために行われているという面も大きいように感じます。
すなわち、投げ銭をする側はそれによって自分に何らかの見返りがあることを期待するよりも、ただその相手を応援したいから、そういうノリ・気分だから投げ銭をするということです。
昔であれば、例えばアーティストのライブで出待ちをして、ラブレターやプレゼントなどを渡すというのがより一般的だったでしょう。
わたしは顔にパイを投げてあげたよ!(それはドリフです)
同じような心で、お店に食べ物を欲しがる人が訪れたから、ただ作ってあげるということが可能でしょうか。
ここに家を建てようという人がいるから、職人さんや素材などを手配して建てるということが可能でしょうか。
もし可能ならば、お金という媒介の必要性はどこにあるのでしょう?
反対に、もしできないと感じるならば、それはなぜなのでしょう?
もう一度言うならば「お金のことを考慮しないと○○できない」のであれば、お金は私たちにとって制約でしかないのではありませんか?
私たちはどう生きるか
今年(2023年)はこれと似た名称の映画を宮崎駿監督が公開する予定のようですけれども、当サイトの福話術の毎度のお約束通り、結局はここに落ち着いてきます。
私たち人間は、何をするにも「お金」という概念や数値を媒介にしておこなう道を進むのでしょうか。
それとも、現在でも私たちが日常の生活や人とのふれあいでしているように、お金と切り離された私たちの素直な表現を重視する方向へ向かうのでしょうか。
これらが、たったいまの私たち自身にかかっているだと思うのです。
「私たちはどんな世界をみたいか」と言い換えてもよいでしょう。
このことを意識しながら過ごすことで、自分自身の行為に関して「お金」を尺度にする程度が減っていき、本当に自分がやりたいことなどに向き合うことができるはずです。
そのとき、お金という道具が必要ならば必要な範囲で用いられ、そうでない場合には消え去っていくことでしょう。
まとめ
ここまでお読みくださってありがとうございました!
お金については、自分自身の存在基盤にしていたり、他者を測るものさしになっていたり、安心の材料になっていたり、さまざまに目を向けるべき部分がありますね。
もし今回の記事が、皆様がお金の本質についてご自身なりに検討する一助となればこの上ない幸いです。
あえていえば、ここまで見てきたように私たちが自分に向き合うきっかけとなる限りにおいて、お金は存在意義を保持していると思っています☆
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他にも、日々をちょっとだけ「福」に過ごすことができるような記事をご用意して(いるつもりで)おります。
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(音楽関連の記事も多数ご用意していますので、ぜひトップページからチェックしてみてください!)