自分の価値を示さなくてよいということ:価値を超える「教育」
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして子どもたちと一緒に学ぶ「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
端的に内容を絞っていますので、どうぞ気軽にお読みいただければと思います。
どの時代でもそうでしたが「自分」を探して何かの価値を見出したり、自分に価値がないとうなだれたり、ということが言われますね。
しかし、価値を求めることが本当に私たちの幸せにつながり、子どもたちの未来へつながるのでしょうか?
何かに全力で取り組んでいるとき、ふとこう感じることはないかな?
「いまやっているコレになんの意味があるのか?」と。
「価値」や「意味」という幻想
お子さんたちと一緒に勉強をしていると、しばしば「自分にはそんな価値がない」「自分はそこまでの人間じゃない」といった台詞に出会います。
自分自身のことに限らず、物理的・精神的な物事に対しても「無駄だ」「意味がない」「コスパ・タイパが悪い」などのお話もよく耳にします。
このときいつでも難しいのが、
きみが言うその「価値」ってなんなのかな? どういうもの?
ということなのです。
具体的にみれば何らかの望む結果を得る資格とか、○○をやってよい理由というようなものであることが多いですけれど、そういう資格がいつから必要になったのかは誰も分かりません。
自分に価値があるから与えられる「対価の関係」の罠
私たちは「教育」の名のもとに、幼いころから点数をつけられたり、点数がつかなくとも褒められたり、評価されたりすることに馴れています。
一番最初にそれを経験するのは、お父さんやお母さんから「静かにしてたらオヤツあげるからね」などと言われる場面でしょうか。
こうして静かにしてオヤツを手にした子どもたちは、次に勉強することによっておもちゃを入手したり、仲良くすることによって友達を得たりします。
おそらく人間にとって理解しやすいルールなのでしょう、一度これを身に着ければ、ペットにも簡単に「待て」「お座り」と言ってオヤツを与えるようになりますね。
「価値」からはみ出すというルール化
反対にこのゲームが嫌な子どもたちは「静かにしない自分」(やんちゃ)とか、「勉強しない自分」(不良?)とか、「別に友達なんかいらない自分」(孤高?)とかの形で自分に価値を与えます。
この人々は見た目上ふつうの「価値」など気にしていないようです。
けれど実際には一般的に流布しているルールの反対のルールを価値としていたり、独自の価値を持ち出していたりする点で同じなのです。
「反面教師」や「人のふり見て……」という言葉なども同じですね。
私たちがいかに拠り所を必要とするかという証拠です。
つねに「価値」を問い直すことが「教育」
したがって、もしその子ども自身、その人自身がもともと持つ二つとない特質を見出し、発展させていくことを望むなら、私たちが個人や集団で身に着けている「価値」をいつでも問い直す必要があります。
こういう自分であればこういう評価が得られる、こんなことをやればこんな風に思ってもらえる、という発想を根本から見つめてみることです。
(家族や友人、先生、テレビ、YouTube、SNS経由などでお子さん自身がすでに多くの「価値」を身に着けているため、経験上もこれはあまり簡単ではありません。)
少なくとも、このような目線があり得ること、急いで価値を示さず自分自身でどんなことでも感じ取ってよい時間があるのを伝えることは「教育」です。