メガネ(尺度・評価)にかなうかどうかを意識させないこと:自由への道
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして子どもたちと一緒に学ぶ「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
教育を起点として、人間生活全般にかかわる事柄についてできる限り端的にまとめていますので、どうぞお気軽にお読みいただければうれしいです。
おそらく未来の人々からは「SNS全盛時代」と振り返られるであろう今日、自分の言葉や行動が他者によってどう評価されるかが重要な問題となっていますね。
ダルマ師匠ってブサイクでかわいい!
……なんて言ったら「人を顔で判断するな!」「嫌味か?!」などと突っ込まれかねん。
こうした私たちの振る舞いに隠されている要素とは何なのでしょうか。
いつも「尺度」と友達の私たち
「昨日、道端で一瞬目にした石ころが、本当にブサイクで汚かった……!」とSNSに投稿する人物がいたとします。
これに対しては、きっとほとんどの人がどうでもいいという判断を下して聞き流すでしょう。
中には「石ころにまで当たるなんてクソ荒んでんだな。負け組オツ」などと応答する人もいるかもしれません。
ここで起きた現象を細かく見ると、Aさんは石ころ発言を目にして特に引っかかることがなかったので、ただスルーをしました。
他方、BさんはSNS上とはいえ人が自分の気持ちを汚い(とBさんが評価する)言葉で表すことには反対という尺度を持っていたので、リプライせずにはいられなかったのです。
以前の記事(『最年少・最年長病を克服するための教育:自分の「想定」を知ること』)でも触れましたが、何を見るにも自分の尺度を持って当たるのが私たちなのですね。
尺度は自分をも対象とする
良し悪しは別として、この尺度が外側の世界へ向いているだけならば、当人はあれやこれやと揶揄してまだ楽しく過ごしているかもしれません。
しかしこうした尺度は確実に私たち自身にも矛先が向きますから、遅かれ早かれというより、楽しんでいるつもりの期間もずっと私たちの心に影響しています。
(※私たちは常に自分自身を教育しています⇒詳細は『【教育の意味】自分のふるまい全てが教育であるということ』)
上の例でいえば、今度石ころを目にしてふと蹴ったときや、Bさんが「石ころのようだ」と感じる何かに対して否定的な態度を取ったとき、必ず心のどこかで
負け組
という言葉がちらつくことでしょう。
私たちに尺度が組み込まれる形態はさまざま
ここまではBさんが自ら進んで自分の尺度を作った例でしたが、他にも私たちが尺度を採用することになるきっかけは無数にあります。
中でも効果が大きいのは、親や目上の人物から与えられる伝統と積み重ねたっぷりの使い込まれた尺度でしょう。
これらの場合のほとんどにおいて、尺度を与える親などに子どもを枠にはめようとする意志はありません。
本当に、あなたのためを思って言ってるの。
手に職をつけて資格を取っておかないと、これから先が見えない時代なんだから生きていけないよ!
そもそもこの世界に生まれてから時間の経っていない子どもたちに先が見えているはずはないのですから、彼らにとっては今もいつでも先の見えない時代です。
その海原へ漕ぎ出す前に、もちろん子の安全を心配する親心から、海はとにかく危険だという尺度を与えてしまいがちなのが私たちなのです。
尺度フリーな生き方へ
したがって、もし子どもたちや自分自身が必要以上に恐れを抱かず、それぞれが素直に感じるところにしたがって生きていくのを助けたいと考えるならば、自分の言動によって他者に何らかの尺度・物差しを与えていないかよく注意する必要があります。
その瞬間は冗談や笑い話であっても、表現の仕方によって相手に与える影響はいろいろです。
昔から「そんなつもりで言ったんじゃなかった」というやり取りが人間同士でずっと行われているのもこの辺りにかかわりがあるでしょう。
人間同士が不必要に互いを評価する尺度を持たないよう、自分の言葉がどんな尺度に基づいているのか確認するのを促すことは、教育の大切な機能の一端です。