親が器の小さい「演技」をすれば、子もそれに遠慮する
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして子どもたちと一緒に学ぶ「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
教育を起点として、人間生活全般にかかわる事柄についてできる限り端的にまとめていますので、どうぞお気軽にお読みいただければうれしいです。
さて、自分のことを小さく見せて遠慮を示し、場や相手を立てる振る舞いは日本に限らずどの文化でもみられます。
それをする本人や相手にとっては社会的な礼儀として当然であったり、自分の慣れた振る舞いであったりして、特に違和感もなくおこなわれ受け入れられることがありますね。
しかし、その場にいる他の人物たち(とりわけ子どもたち)にとって、こうした自分自身を低めるような言動は予想外の影響を持つことがあります。
謙遜と卑下のあいだを行く演技
いや、失礼しました。手前は坐禅ばかり80年、バカの一つ覚えでやってきたもんでして、他になんの取り柄もないんです。
(※登場人物の設定であり、坐禅を否定する趣旨はわずかもありません)
昔に比べれば減ってきたと思われますが、このような言い方は男女を問わず、上司や先輩・同僚などとのやり取りでまだまだ数多くみられます。
もちろんこの言葉を発する当人は、自分が取り組んでいる仕事について肌で知っていますし、その責任も担っているのですから、他に何もできないなんて事実ではないことは明らかですね。
本当に自分のことを理解していて、純粋に単なる便宜として演技がされる例もよくあるでしょう。
他方でこのように謙遜と卑下の合間を縫って話すような振る舞い(「演技」)を重ねることに、理由が一切存在しないと考えることも適切ではないでしょう。
心のどこかで何かに対する引け目を感じているのかもしれないし、トラウマがあるのかもしれないし、相手が怖いのかもしれません。
お父さん・お母さんは「器が小さい」の?
家の中でお父さん・お母さんは、尊敬する大黒柱であり愛する家族です。
でも、外に出るとどこかヘコヘコしたり、特定の相手に対して特定の振る舞いをしたりする姿を見て、子どもたちが何も感じないはずがありません。
いくつか子どもたちが思うであろうことを挙げてみましょう。
- お父さんやお母さんはどうしていつもみたいにしないのだろう
- あの相手の人はものすごくエライ人なんだ
- 自分もあの人には頭を下げなきゃ
このうち、ここで取り上げたいのは三つ目の反応です。
親がへりくだっている相手と子どもとの関係
子どもたちにとって、親が形成している人間関係や社会的な関係(「親ワールド」と呼びましょう)は普段の自分たちと全くの別世界です。
その親ワールドに存在するキャラである社長や上司・お世話になった人という人物たちは、子どもにとってせいぜい学校の先生か、道端ですれ違う人と同じです。
にもかかわらず、いつの間にか子どもたちもそれらの人々に対して親と同じように振る舞う(親ワールドのキャラになろうとしている)例が多いですね。
子どもたちは常に学び吸収していますから、親が他者とどのように接するかを目にするだけで十分なのです。
本当は目の前で美味しそうにお酒を飲んでいる「社長」と話してみたいのに、親が何らかの理由で強くへりくだっていたり、自分の立ち位置を堅持しようとしていたりすると、子どもたちはそれを感じ取って遠慮します。
ここでみられる現象は、すでに本カテゴリーでも取り上げた自分の振る舞いすべてが「教育」であるということを裏付けています。
親も自分を枠にはめないこと
したがって、真に子どもたちがのびのびとした気持ちをもち、自分なりに自然な振る舞いをするよう促したいならば、私たち自身が他者とどのように関わっているかを確実に意識しなければなりません。
子どもたちの器はいまだ定まっておらず、まだまだどこまでも変化して成長するチャンスがあります。
だから私たちが自分を枠にはめる奇妙な(?)癖を見せることで、子どもたちを私たちのワールドに沿わせることのないよう注意が必要です。
好き勝手に振る舞うようにしようというのではなく、謙遜するなら謙遜するで心からそれをして、その真意をきちんと子どもたちに見せることです。
誤解のないように付け加えれば、もちろん親だってそうでない人だって誰だっていつまでも変化し、成長していける存在です!
以上に述べたことは、社会的な要因も深く関係していることは確かでしょう。
けれど、この毎日を暮らしている私たち一人ひとりからいくらでも変化を起こすことができると理解し合うことは、「教育」の担う大きな機能です。