親が(他人が・自分が)満足する教育をあきらめるという「飛躍」
このカテゴリーでは、東京大学卒業、司法試験合格、そして「現役」家庭教師である管理人が、教育について大切と考える内容を記述しています。
教育を起点として、人間生活全般にかかわる事柄についてできる限り端的にまとめていますので、どうぞお気軽にお読みいただければうれしいです。
「教育」という言葉を使う場合に、私たちは何らかの目標をもっている場合がほとんどです。
その目標・目的へ向かう(向かわせる)ことを教育の本旨として、そのための手段を数々編み出していくのですけれども、それが本当に適切なのでしょうか。
「目標」の由来
何事にもおいても目指す方向性をはっきりとさせ、そのためのステップを具体的に組み立てることは欠かせません。
しかし、学問も産業も無数に分化した現代において、一人一人が最低限の学力、識字力などを身につけなければならなかった時代は過ぎ去ったのですから、今度はこの考え方自体をまな板にのせて検討することが必要です。
大学合格・就職・その他夢の実現などの「目標」を掲げて邁進することは、昔も今も美しいこととして称揚されていますが、それはなぜでしょうか。
だって頑張って目標を達成すれば、そこから素晴らしい人生が開けるだろう? そのために努力するのだろう??
今のままでは足りないから目標を立てる
一理あるように思えますが、実際にはその反対です。
もちろん、何か目標を達成すれば、達成のその瞬間までその目標にずっと焦点を当ててきた私たちの心は喜ぶでしょう。
現実的な意味でも収入が増える道筋を手にしたり、ホームラン王になったり、宇宙へ飛び立ったり、目標を達成してこそ経験できる事柄もあります。
しかし、これらは「なぜ目標を立てるという考え方をするのか」ということへの答えではありませんね。
つまり、単にビッグマックを食べるのでは足りない(面白くない、もっとこうして見せたい、もっとこういうものがほしい)から、目標を立てるのです。
これを例えば親の立場から教育になぞらえるなら、ウチの子はただ成長するのでは足りないから、良い学校へ入れなければ、良い塾へ通わせなければ、手に職をつけさせなければと考えるのです。
子どもの気もちとのギャップ
このことが子どもの気もちとずれる例が多いことは、簡単に想像できると思います。
子どもたちは生まれてきたままに、自分の興味関心の向くままに、物事に触れ選択をして自分の道を拓いています。
そこへ親という外側の存在が、さらに外側の社会とか将来とかいった事情に基づく「目標」を提示するのですから、子どもたちが面食らうのは避けられないことなのです(進級・進学うつ、中学校になじめないなど)。
お子さんとよく話し合ったうえで、全員が納得できる形で目標へ向かうご家庭もたくさんあることは付け加えておきます。
満足する「教育」をあきらめる
したがってここで問われていることは、「教育」という名で私たちが子どもたちに何を求めているのかということです。
同じ存在が二人といないそれぞれの子どもにとって、最もふさわしい成長の環境を与えてあげることを私たちが重要と考えているかどうか。
もしそうであるなら、私たちや子どもたち自身が満足するような教育はあきらめなければなりません。
なぜなら満足することを求めるのは、今の自分(わが子)では足りないと宣言し続けることにつながっているからです。
それよりも、子どもたちそれぞれの持って生まれたものを自然に生かしてあげて、自分そのままでなんの欠けたところもない、ということを理解させてあげることこそが大事でしょう。
そのプロセスの中で、子ども自身の想いから目標が生まれてくること。これが大きな飛躍であることは疑いがありません。
大人が教えるのでもなく、子どもが教わるのでもなく、ただ「学びが起こる」ように促すことが本来の「教育」です。