AIに仕事を奪われる?【私たちはすでにAI】なのでは?
ようこそいらっしゃいました!
今回は当サイトの一つの柱とすることを目指している【福話術】の第5回をお送りしたいと思います。
取り上げるテーマは、
私たちはすでにAIなのだろうか?
という少々突飛なものです。
もちろん、物理的にはそうではないというべきでしょう。
必要な装置を身体に取り付けて生活をし、その装置などにAIが組み込まれているという例は現代では数多いと思いますけれど、私たちのほとんどは「自分は、この身体はAIではない」といった発想をしているはずです。
それが事実なのか、今回は一緒に確認してみませんか?
やや長文なのですが、きっと読み応えのあるものに仕上がっていると思います☆
AIに仕事を奪われる……!
この頃よく耳にする表現に「AIが人間の仕事に取って代わる」、「自分のやっている仕事などいずれAIができるようになるから、職を失ってしまうよ」などというものがあります。
いずれも多少の冗談を込められつつ語られる場合があるかと思いますが、内心ではどこか不安な感覚が残ったまま、この類のお話を終える方もいることでしょう。
わしの仕事は取って代わられんぞ。何しろ「座禅」だからな! これは自分以外に誰もできん!
確かに座禅のような活動は、それによって何かを生むということと対極にあるものですから、AIがうんぬんという懸念は出てこないはずです。
(AIが代わりに座禅をしてくれます……というアプリなどが現れたら、ぜひ眉唾で利用しましょうね笑)
そうではなく、現代社会のほぼすべての場面に及んでいる、生産性を求められる活動については、人間をはるかに超えた処理能力を持つAIの利用が進むのは確実視されています。
ここを指して「AIが我々の仕事を奪う」と表現しているわけですね。
「仕事」とは?
それでは、ここでいう「仕事」とは何なのでしょうか。
- 日々の生活の糧を得るためのもの
- 自分の身体や頭脳を使って、何かを形にするもの
- 数々の雑務全般
などが年頭に置かれていることと思います。このような性質を持った「仕事」が、私たちのそれぞれなりの生活で具体的な事柄として取り組まれます。
ここで項目として挙げたものの中身には立ち入りませんが、共通する要素として「やらなければならないこと」といったニュアンスが含まれている点は注目に値します。
というのも、私たちは
自分の「遊び」がAIに奪われる、
とは決して表現せず、
「仕事」が奪われる
と常に言うのです。
糧が奪われるという意味合い
このことから、私たちは基本的に、AIによって自分の口を糊する手段が奪われ生きていけなくなる、というようなことをイメージしているのだと考えることができるでしょう。
この現象の根底は、例えば企業が海外から来た労働者さんに支払う賃金を抑えることで人件費をセーブしたり、工場を賃金水準の低い地域へ移すことによって同様の効果を狙う場合と同じことです。
安い賃金によって同じ労働力が得られるのであれば、それまで雇用していた相対的に賃金がかさむ傾向にある労働者たちは企業から追い出されかねません。
そのような立場にある方々は、当然「海外からの労働者によって仕事が奪われる」、「工場移転によって自分の仕事がなくなる」と言うでしょう。
「○○によって自分の仕事がなくなる」という物事の展開は、これまでもたくさん見られてきたということですね。
なぜ「奪われる」のか
上のような現象が発生する原因は何なのでしょうか??
もちろん、詳細に分析すれば多岐にわたると考えられますが、ここでは以下の二つを確認してみたいと思います。
- 生産性や効率にばかり注目しているため
- 「人」に注目していないため
生産性や効率への渇望
「AIに仕事を奪われる」という表現が直接に意味しているのは、すでにみたように、自分(人間)の生活の糧を得る手段に当たる作業をAIが担うようになるから、自分(人間)はお払い箱になるというものです。
この流れはAIやコンピューターの特定の性能が人間を間違いなく上回っている以上、不可避といえるでしょう。
つまり、私たちがこの手で取り組んできた何らかの仕事は、必ずAIがおこなうようになります。その分、その仕事に就いていた人が職を失うということも起こり得るでしょう。
技術が限りなく発展していく可能性にかんがみれば、現代において仕事としてなされている事柄(医療、法律、金融、その他高度な能力を要するとされる業種さえ)はひとつの例外もなくAIが担うという未来もあり得るはずです。
管理人自身もそのようなことが起きた社会を想像してみると、ちょっと怖いような気持ちがします。
しかし、おそらくポイントはこの部分にあって、どうして私たちは上のような未来について恐怖や不安のようなものを感じるのでしょうか?
私たち自身がすでに「AI」?
それは、私たち自身がすでに効率を求めることに慣れすぎているからではないでしょうか。
自分自身に対しても言っているのですが、仮に人間が生産性や効率ばかりを意識するのであれば、もはやその人間はAIです。
この発想は、AIなどのプログラムの発想と全く同じです。
ある計算処理のルートが行き詰まれば、一度やり直して、うまくいく最短の道筋を探す。そこからより効率的なルート、演算式を抽出して、さらなる効率を目指していく。
この意味で、実は私たちはコンピューターが発明され「AI」というプログラムが誕生するずっと前から、とっくに「AI」だったのです。
逆に言えば、いま存在しているAIは、人間が持つ効率性を求める精神を集約して先鋭化させたものだと理解することもできるでしょう。
これを乗り越えようというAIの開発もきっと進んでいるでしょうけれど。(管理人はコンピューター系が得意なわけではないので分かりません……笑)
この筋でみていくと、人間は自分自身の能力の一部を猛烈に強化したシステム(AI)を自らの手で生み出し、そのシステムと自分で戦おうとしているのだから、ある意味で勝ち目がないことが勝利のような状態にあるともいえますね。
漠然とした恐怖の感覚はこの辺りから来るのではないかと管理人は予測しています。
平たく言っても、生身の身体を持っていないAIや機械(ひいては目に見えないプログラム)に、生身の人間が太刀打ちできるはずはないのです。
自分たちが生み出したものに自分たちが支配される、という『2001年宇宙の旅』のような感覚もありますよね。
ここで太刀打ちするしないという発想になるのは、何度も書いてしまいますが、私たちが生産性や効率、結果に着目した生き方に傾いているからですね。
ほんとうに「人」に注目するということ
生産性などに重きを置いた世界観では、AIが十分に賢くなって何でもこなせるようになれば「もう人間なんて要らない」などという困った論理にもつながりかねません。
けれど、おそらくここまでお読みくださっている皆様もお感じの通り、人間なんて要らないという言葉は、私たち人間には到底受け入れられないないものですよね。
それでは、私たち人間はどのようにこのことに対応すればよいのでしょうか。
管理人個人としては、私たちが自分自身すなわち「人(人間)」に注目する心のありように変化していくしかないのではないかと考えています。
個性や創造性でもない
これまでにも、個性を伸ばす教育とか、自分に合った仕事探しとか、それぞれの人に適した学びや職業、生活を目指そうという発想は広まってきていますね。
けれど、これらの考え方の背景にあるものに注意しなければなりません。
このように、実際には生産性や効率・結果・成果といったワンクッションや、のちに現れるであろう効果・メリットなどが暗黙裡に前提されていることにお気付きの方もいらっしゃると思います。
一見、それぞれの人が自分らしく生きていくことを支援するという理屈なのですが、その裏で「そうすれば何らかの結果得られるから」という頭があるのですね。
逆向きに見てみれば、この「何らかの結果」を生まないような「個性」は求めていません、という表明です。
このことが悪いと言いたいわけではなくて、私たち自身がそうした考え方に知らないうちに慣れ切っているのではないか、ということなのです。
それならば生産性ばかりに着目するのをやめればよいのではないか、とも思えるのですが、現代社会においてそれは簡単にはいきません。
AIその他のシステムの利用も上手に図ることが必要でしょう。
ただ「人」
そこで、私たちにできることは、人間の「創造性」などに目を向けるのでさえなく、ただ「人」であるそれぞれに目を向けることしかないのではないでしょうか。
これまでのように数や結果を求めれば、確実にAIに及ばず淘汰されます。
人の個性・創造性を求めれば、それが開花したかどうかや、そこから生まれる何かの方をどうしても意識してしまいがちです。
改めてまとめれば、従来の発想はいずれも、
人間(自分)が何を成したか=出来高
を大切にしたものなのです。
出来高を問題にするなら、当然、目標値や前年の数値などが考えに入ってくるでしょう。そうすれば、必ず比較が入ってきます。
比較されれば、優劣が生まれます。
優劣がつけられれば「優」を求めたり、逆に卑下して「劣」を選ぶという行為が現れます。
自分に「優」や「劣」がくっついているとなれば、さらにどちらかの方向で出来高を求めるようになるでしょう。
むしろ↑これが奨励されてさえいそうです。
こうして循環しているのが、現代の(古くからですが)私たちです。
私たちのこの循環の能力を極限まで高めているシステムが、AIなどのプログラムでしょう。
出来高を越えて生まれるもの
そうではなくて、ほんとうにここにいる自分、目の前にいる誰か、どこかにいる人々、それぞれの様子に着目すること。
自分や誰かが何かを成し、変化を遂げる、達成するというような発想なしに、ただそれぞれに注目すること。
それこそがAIなどの急速な発展、それに伴う社会的な流れに対して私たちができることだと考えます。実際のところ、私たちは幼い子どもたちに対してはこのように接していることが多いのです。
うんち出た~~えらいね~~~! 全部食べられた~~~、えらいね~~~~! 膝すりむいた?? 痛いね~~~~。
というように、子どもがしたどんなことでも、そのこと自体として取り上げて済ませます。
「おむつの中でうんちするのでなく、ちゃんとおまるに座るべきだった。それができなかったお前はダメな子だ」などとは、不用意に言わないのです。
同様に、私たちも自分や他人すなわち「人」に対して、その人そのものとして目を向けることができるはずです。
このとき、一定の結果・成果という尺度に照らせば、それを満たしていないふるまいや、求められていない表現なども出てくることでしょう。(もちろん、尺度にピッタリはまる表れを見せるタイプの人もいるでしょう。)
しかし、この表現こそは、誰に強制されるのでもなくその人から流れ出たものです。従来はこの流れ出るものをせき止め、出来高のために矯正するという手続きが加えられていましたが、それがなければ大変スムーズです。
スムーズに出てきたものは、その流れを自身で整えるのも簡単です。仮に「望ましくない」ものが現れたら、その現れる背景もその人自身として確認すればよいのです。
以上のように考え方をシフトすることこそが、生産性などのもものさしでなく、計算の道筋、回路や選択肢の多様性でもなく、人が人であるところのあり方をそのまま生かす道だと感じています。
そこでは、これまでと同じように(仕事や創造の)活動をする人もいるでしょうし、また別の生き方を選び取る人もいるでしょう。それらすべてを大事にするということです。
裏を返せば、ものさしを手放せば自然とこういう見方になるともいえそうじゃ。
何も生み出さないことを許容することが、かえってさまざまなものを生むという心構えを自他に許したとき、どんな世界が私たちの前に現れるでしょうか。
(追記)記事を読んだ方からの感想
管理人が以前紹介させていただいたメンタルケア・カードヒーリングのYouTubeチャンネル「mayu’s room」の運営者の方から、コメントが届きました。
「私は、生産性優先で人間が生きる時代が最低でもあと300年は続くとみています。500~800年ほど経てば、ようやく『ああ、足りるだけでいいんだ』とAIが判断し、自給自足や物々交換など、実際にはもっとも生産性の高いあり方へと回帰するのだと思います。
もちろん、品を変えて大昔から繰り返している動きのひとつなのですけれども」
ここで自給自足や物々交換と言われているのは、原始的な意味合いのそれらというよりも、人間同士が互いの価値を交換する際に、間に余計なものをさしはさむことの奇妙さに気付くといったことでしょう。
まとめ
ここまでお読みくださって本当にありがとうございました。
当サイトでは、専門家ではなく一個人の観点から、いろいろな物事について考えてみるカテゴリーとして【福話術】を用意しております。
何かの答えを出そうというわけでもなく、管理人自身やここを訪れて下さった皆様がご自身なりに、人やこの世界を観ることでこそ「福」がやってくるだろうという思いも込められています。
下部にカテゴリーへのリンクをご用意しましたので、ぜひお時間のあるとき遊びにいらしてくださいね☆
(音楽関連の記事も用意していますので、気になった方はそちらもぜひ!)
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